methinks

ツイッターの140字では書き切れないけど、フェイスブックに直接投稿するような性質のものでもないやつ。

表現の自由と想像の余地

 

絵画、文学、映画……。こういったアートにおける規制、あるいは制約が絶対悪かと言うと、必ずしもそうと言い切れないところもあって。

「これより先は見せない、それ以上は表現しない」

こういうのが完全になくなると、人間の想像力っていうのは枯れてしまうと思うのですよ。

 

つまり、全てを見せてしまうと、実存的現実にある意味で縛られて、想像の余地が狭まってしまう。相対的であるべき各人のイマジネーションが、一つに収斂されてしまうというか、画一化されてしまうというか……。

だからこそ、映像という実存主義の権化のようなツールが登場してもなお、未だに人は絵や文章に惹かれ、その欠落した要素の脳内補完作業を楽しむわけ。

 

特にエログロは、どこまで見せるか、言い換えれば、どこ(どういう表現)を切り捨てるか、っていうことが重要になってくると思う。

たとえばエロだと、こんな感じで、男役をあえてタコに代替してみた春画だとか。(→ 今のお色気漫画にも脈々と受け継がれてる手法ですよね。触手系)

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グロであれば、スプラッター的なとこは、あえて映さず成功した『悪魔のいけにえ』だとか。
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敷かれたライン際ギリギリのところでせめぎ合うことで、良い物が生まれることも多いような気がする。

でもまあ、そんなこと言って、観る人、読む人の想像力を働かせるために自分のやりたい表現を自粛する/規制されるなんて、本末転倒。

だから、限りなく広い表現の自由の幅と、底なしに深い人間の想像力の可動域をいかに最大化して、共存させていけるかというのが、ますます肝心になってくると思う。

「あえて」。これは芸術における危険であると同時に可能性でもあり、現代社会に対する挑戦でもある。

 



戦争映画について思うこと

 

シャトーブリアンからの手紙』(原題: La mer à l'aube)を観た。2011年の仏独合作映画だ。

 

ストーリーが簡単にまとめられているので、まず下のリンク先に目を通してほしい。

http://www.moviola.jp/tegami/story/

(配給会社の運営するサイトなので、ネタバレ防止網を張った説明になっている。だが、そもそも史実に基づいた作品だから、ネタバレなんてものは存在し得ない。本作は、思いがけない展開を期待して観るべき類いの映画ではない。さらには、「彼らは果たしてヒトラーの命令に背けるのか」という見出しが掲げられているが、この映画が伝えようとしている趣旨とはかけ離れている。)

 

 感想

報復の的として処刑される収容所内の「政治犯」たち(フランス人)。ナチスの姿勢に忌避感を抱きつつも、上からの強い流れに逆うことのできない現地のドイツ軍司令官たち。占領軍からの命令に反発を示すも、それを受け入れざるを得ないフランス人行政官。自らの手で人を殺すことに恐怖するドイツ軍人の青年。

とてつもない理不尽への苦悩を、複数の視点を通して第三者的に写し出す本作。劇中では姿を見せない巨悪の独裁者が作り出す大きなうねりが、そこには感じ取れる。強力な忖度の激流の勢いに、誰も立ち向かうことができない。全体主義の恐ろしさを静かなタッチで強烈に見せつける。

映画の最後には27人の人質たちが、淡々と銃で処刑されていく。感動的な音楽も、特別な演出もない。ただ淡々と、不条理を極めた死だけが生み出されていく。その死を確実なものとするため、絶命したであろう彼らの頭をピストルで撃ち抜く「作業」が続く。パン、パンという気が抜けるほど軽い銃声とともにその光景を映すロングショットには、どんなに凄まじい戦闘シーンよりも純粋で鮮烈な絶望を突きつけられた。

 

 

同質化と異物化

注目しなければならないのは、この映画を監督したのがドイツ人だということだ。フォルカー・シュレンドルフは、79年にパルムドールを受賞した『ブリキの太鼓』の監督で広く知られる。この映画もまた、ナチスの侵攻で人生を左右される少年の姿を描いたものだ。

戦後ドイツでは、ナチス時代の負の記憶を国民が共有し、今に至るまで忘却することも修正することもなく、誠実に受け止めてきたように思う。「国のため命を賭した父・祖父たちを否定するのか」。映画で加害者としての姿を描いても、ドイツでそんな議論はほとんど起こらないのではないか。当時の「国のあり方」自体が絶対的に間違っていたという明瞭な認識を、皆が共通して保持してきたからだ。

 

ドイツと単純比較はできない。そうだとしても、他方で日本はどうだろうか。加害者目線に徹して第二次大戦を描いた映画は、ほとんどない。戦争の否定は試みるが、その手法はドイツと完全に異なる。すなわち、先祖の戦死を悼むということだ。

2013年末、すでにベストセラーとなっていた『永遠の0』が映画化され、大ヒットした。家族を残した父が、若い特攻隊員の身代わりとなり、米艦に向かって突進していく。自分ではどうすることもできない潮流に呑まれた軍人の悲劇的な末路。その死を悼むことで、先の大戦の不条理を伝える……という形なのだろうか。

しかし、これでは「敗戦国の悲劇」を表現したに過ぎないのではないかと感じる。物質的に疲弊し、後がない状態で大国アメリカに立ち向かっていく。戦争邦画には、こうした構図が多い。だが、その内容は、「無念さ」を伝えるにとどまっているのだ。

どこか賛美の意を含有しながら、戦争の悲惨さを伝える。日本では、こうしたアプローチの戦争映画がヒットし、評価を受けるのだろう。家族愛や自己犠牲といった、過去と現在の日本に通底し得る美徳。それらを描くことで当時への共感を呼ぼうとする。つまり、いかに今の価値観と“同化”させるかが重要視されるのだ。そこには、一種、戦前からの「連続性」のようなものを感じる。

加害者であった過去を痛烈に示し、当時の自国体制を客観的に否定することで、「連続性」を断ち切る。こうした考えに基づく映画が評価されるドイツとは真逆だ。同国では、いかに“同化”を図るかではなく、いかに“異物化”するかに力が注がれているように思える。

 

 

このエントリーを書くにあたって、興味深い記事 (http://lite-ra.com/i/2016/05/post-2241-entry.html) を見つけた。孫引きになるが、映画監督・松江哲明の話を引用する。

日本は加害者になった映画を上映しないんですよね。(中略)  日本人がひどいことをしているところを描いているに違いない、みたいなことで上映しないというか、抗議を恐れて自粛っていう...。僕はその雰囲気がすごく怖いんです。

 

心地よい麻痺

 

幼稚園の年中だから、もう17年前になる。

「お泊まり保育」は年中組の通例行事だ。自分たちで夕食を作り、自分たちで布団を敷いて園に一泊。いつもは何から何まで親にやってもらう甘ちゃん幼稚園児たちが、(たかが1泊だけれど) 親元を離れ、その日を乗り越えるとちょっぴり大人びる。

 

母いわく、5歳にもならない当時の俺は「いやだ、いやだ〜!」と泣きじゃくってぐずり、この行事をボイコットしようと画策していたそうだ。いまや、むしろ親もとから離れた生活の方が快適に感じるほどだが……。そんな努力もむなしく、その日の朝、腕を引っ張られながら幼稚園に連れていかれた。見慣れている赤レンガの建物に、普段とは違う威圧感を覚えたはずだろう。

 

夕方まで何をしていたのか、記憶はほとんどない。キリスト教系の幼稚園だったから、礼拝でもしていたのだろうか。とにかく、事件は夕方に起こった。というか起こした。

 

学校行事で作る料理の王道といえば、カレーライスだ。この「お泊まり保育」も例に漏れず、夕食はカレー。ちっちゃな手で初めて握るペティナイフやピーラー。たどたどしい手つきで野菜の皮を剥き、一口大に切っていく。最初は刃物が少し怖かった。だが、その辞書に「用心」という言葉のないチビ助は、いつの間にか注意力というものをどこかに置き忘れてしまったようだ。

 

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「固ってぇ〜」。力の弱い子供にとって、ジャガイモを切るのは一苦労だ。右手にグッと体重をかけて刃を通す。ザクッ。次第にコツがつかめてきた。ザクッ。余裕も出てきて、隣の友達たちとワイワイ喋りながら山積みになった肌色の塊たちを処理していく。

ザクッ。あれ……? なんだか切った時の感触が違う。下に目を向けると、まな板が赤く染まっていた。手元を見て、その液体の源流が分かった。

 

ジャガイモと間違えて、自分の左手の親指を切り落としていた。

 

「切り落とした」というと、根元からザックリいったように聞こえるが、そこまで本格的にやらかしたわけではない。指先1〜2センチくらいの部分を爪ごと切ってしまったのだ。「うわ〜グロっ」。いや、その時はまだグロテスクという言葉なんて知らない。

「???」。何が起きたのかよく分からなかった。でも、血はダラダラ垂れているし、こりゃマズい。とりあえず先生に伝えなきゃ。

「せんせぇー、ゆびきれたー」 

 

あらあら大丈夫?と様子を見にきた先生の顔色は一変。他の先生を大声で呼びつけ、二人で手当てしてくれた。手当てといってもティッシュで指を包むくらいだったけれど。若い女性の先生は泣き出しそうになりがら、「痛くない?大丈夫だからね!」と気遣ってくれた。

でも……、全然痛くなかった。たぶんアドレナリンが出ていたのだと思う。ふつう、そんなケガをしたらわんわん泣いても不思議ではない。けれど、痛みを感じないものだから、涙ひとつ浮かべずやけに冷静だった。どっちが子どもでどっちが大人かわからない。

 

送迎バスのドライバーのおっちゃんが運転する車で、近くの整形外科に急行した。そこからはまた記憶が薄れるのだが、指を切った時よりも、縫合する前に打たれた麻酔注射の方が断然痛かったことは憶えている。

 

「お泊まり保育」ボイコットという当初の魂胆は、意図せぬ形で達成されてしまった。

 

「痛みに耐えてよく頑張った!」とばかりに、その夜は父が焼肉店に連れていってくれた。肉の味など記憶にない。憶えているのは、縫い合わせたばかりの指と指先とが触れる感覚だけだ。

 

縫合の跡が残る左手親指の先っぽは、ぷっくりと膨らみ、いまも俺にこの日のことを思い出させる。

まあ、いまとなっては笑い話。お泊まりはしなかったけれど、あの日を乗り越えた俺も多少は成長したのだろうか。

 

奥田民生になりたいボーイ

 

ユニコーン世代

奥田民生(52)といえば、広島出身のシンガーソングライター。同じ高校の先輩に吉田拓郎がいる。

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彼の名前を聞いて連想するものは何だろうか。真っ先に「ユニコーン」と答えるのは、氏のバンド全盛期に10〜20代を過ごした40〜50代のおじ様おば様たち (悪い意味はない) に多い気がする。頭に浮かぶのは、『大迷惑』や『すばらしい日々』といった曲たちか。「若い頃はカッコよかったんだよ、民生」

PUFFY」を挙げる人も少なくないと思う。彼らの“奥田民生原体験”というか“奥田民生像”とでもいうべきものは、バンドボーカルではなくプロデューサーとしての姿なのだろう。「奥田民生?ああ、たしかPUFFYの曲作った人じゃなかったっけ?」

 

一方、現在20代序盤の自分にとって、奥田民生といえば奥田民生でしかないのだ。生まれる前にユニコーンは解散。PUFFYは知っているけど、フロントマンとしての彼を知らない世代にとって「作曲: 奥田民生」が際立って目にとまることはない。

そもそも、若者の間で奥田民生の認知度は高くない。一定の知名度はあるだろうが、彼がユニコーンというバンドのボーカルで、みんな知ってるPUFFYのプロデュースをしたという事まではあまり知られていないように思えるのだ。むしろ曲には聞き覚えがあるけど、誰が歌っているのかは知らないという人が多いのではないだろうか。

 

 

マシマロは関係ない

こんなことをつらつらと書いているのだから、俺が奥田民生好きだということは言うまでもない。しかし振り返ってみると、どのように彼の名前を知り、何がきっかけで彼の曲をiTunesのライブラリに入れ始めたのか、全然記憶にない。そのくらいフワフワした存在なのが奥田民生なのだと思う (いい意味で) 。

それと似たように、彼の曲の特徴は、歌詞の内容がスッと頭に入ってこないこと。例として『マシマロ』('00)の歌詞を引用する。

 

雨降りでも気にしない 遅れてても気にしない
笑われても気にしない 知らなくても気にしない

君は仏様のよう 広野に咲く花のよう

だめな僕を気にしない ひげのびても気にしない
うしろまえも気にしない 定食でも気にしない

君はまるで海のよう はるかなる太平洋
たたずまいは母のよう さとりきっているかのよう

げにこの世はせちがらい その点で君はえらい
凡人にはわかるまい その点この僕にはわかるよ

君とランチをたべよう いっしょにパイを投げよう
君のスカートの模様 部屋のかべ紙にしよう
君の口出しは無用 ただ静かに見ていよう
君とともにいれるよう 日々努力し続けよう

ああ

マシマロは関係ない 本文と関係ない
マシマロは関係ない

 

ほら、なに言ってんだかさっぱり分からない。

変わり者の「僕」と、それをも気にしない「君」。人との違いなんか気に留めない二人の恋を描いているようにも解釈できる。ただ、一度聴いただけでは、韻を踏んでいるだけの、内容がいまいち理解できない歌詞に感じられるはずだ。

タイトルの『マシマロ』とは何なのか、どういう意味が込められているのか、歌詞上のトリックスターとなるフレーズなのだろうか。そんな思いで聴き始めるが、その答えは「マシマロは関係ない  本文と関係ない」。

なんじゃい、それ!

 

 

これは歌だ

しかし、これこそ奥田民生の魅力なのだ

明確なメッセージやストーリーを提示する曲は、聴く人のこころを動かす。一方で、脈絡がないようにも思える歌詞だからこそ、自分ならではのイメージや思い出をそこに組み込むことができるのが、奥田民生の曲の特徴だといえる。前者を「線路」(決められた道を進む)に例えるならば、後者は「草原」(どう進むかは“百者百様”)だ。

 

中学時代から洋楽にのめり込み始めた。考えてみると、そこに民生ファンとなった素地が見られるのかもしれない。思うに彼の曲を聴くことは、洋楽を聴く感覚に似ている。ネイティブではない俺が洋楽を耳にしても (それがどんなに好きな曲で幾度となく聴いていたとしても) 、歌詞を日本語と同じような感覚で判ることはできない。これと似た「掴みづらさ」を、奥田ソングにも感じ取れるのだ。

 

読むものでもなく、話すものでもない。歌うもの。彼は、歌詞を“言葉”ではなく“音”として捉えているのかもしれない。俺は『トロフィー』('00)を聴くと、ある旅行の帰路での光景がまぶたに浮かぶ。特急列車でぐっすり眠る友人を横にイヤホンで聴いたこの曲。車窓から見た穏やかな海と橙色の斜陽とのコントラストが忘れられない。その景色とは合いそうもない歌詞のこの曲が、なぜだかマッチした。

ぼんやりとした歌詞の持つ文脈の無さが、聴き手の曲に対する心象を規定しない本人がどのように考えているか分からないが、やはりこれこそ奥田民生の歌の力だと思う。

 

『これは歌だ』('95)で、彼はこう歌っている。

 

なんのための 歌だ これは

誰のための 歌だ これは

すごい顔で 声を枯らし

バババブバビバベブ

イェ〜イ ほかに 何も できない

 

機嫌 悪いわけじゃないよ

頭 悪いわけじゃないよ

説明するのも めんどくさいよ

バババブバビバベブ

イェ〜イ これは 俺の生きがい

 

やっぱり、何言ってんだか分からない

 

トロフィー

トロフィー

  • 奥田 民生
  • ロック
  • ¥250

 

「将来の夢: ○○○○」

「将来の夢は?」

 

小さい頃から、この質問に困ってきた。

だって、【将来の夢=将来の職業】っていう構図が固まっちゃってるから。

「仕事なんか別にしたくない。特に就きたい職業もない」。これが少年の本音だった。

 

学校と家だけの狭いコミュニティーで生活する子ども時代。働く自分を現実的将来像として描くことなんかできない。それでも、こんなこといちいち説明するのも面倒くさい。だから、小学生の頃は、いつも"偽りの答え"を用意してた。

 

「将来の夢: 大工」

 

もちろん、大工になんか (別に大工を悪く言ってるわけじゃない) なりたいとは思ってなかった。じゃあ何でそんな風に答えてたのか。それは、よく遊んでた友達が大工になりたいって言ってたから。彼から将来の夢を拝借したのだ。

「将来の夢: 特になし」なんて書いたら、寂しい小学生だと思われそうじゃん。だから子どもながらに世間体を気にして、"夢のコピペ"をしてたというわけ。何ともまあ、主体性のない児童だこと……。

 

 就活中の今でこそ、おもしろそうだなあと思える職業は見つけられたけれど、それはあくまで「進路」であって、「夢」ではないのかもしれない (まだ進路すら掴めてないが……)。やっぱり【将来の"夢"=将来の"職業"】っていう固定イメージには違和感がある。

っていうことを踏まえて、いまの自分が考える将来の夢は何だろうかと思案する。うーん……。。。一つだけ頭に思い浮かんだ。

 

「将来の夢: 実家のシェアハウス化」

 

うちの実家は、某県にある2階建ての一軒家。俺は都内で一人暮らし。弟も寮にいるから、いまは、ほぼ父母二人だけで住んでいる。そしてこの両親、たぶん俺が40代半ばになる頃か、下手したら30代のうちにいなくなっちゃう。自分と同世代の人の親よりも一回りくらい歳食ってるから。そんなこんなで、早めに親の死を迎える気がしている。

 

ここで問題になるのが、住人のいなくなった実家をどうするかということ。俺も弟も、Uターンとかは考えてない。けれど、たぶん俺たちでこの一軒家を相続することになるんだろう。誰もいない家にも固定資産税はかかる。住んでもない家のために毎年何十万も払うのは、気が乗らない。かといって解体してしまうのも、思い出や自分の"根っこ"をなくしてしまうようで気が引ける。

 

そこで考えたのが、シェアハウス化計画。

割と広めの家だから、多少リフォームすればリノベ物件のシェアハウスとして運用できそうかなぁと。そしたら固定資産税の分だけでも家賃収入が得られるだろうし、実存としての「実家」は保存される…と。

 

まあ夢というほどのことではないかもしれないけど、実現できたらおもしろそう。そんなことを考えながらも、とりあえずいまは"夢"よりも"進路"の確保に必死な就活生です。

 

あなたは誰?

消灯時間の過ぎた学生寮。高校2年のある夜、スマホに一通のメールが届いた。登録していないアドレスからだ。

 

「前から好きでした。明日B組で待ってます」

 

次の朝、ちょっとソワソワしながらB組の教室へ向かったC組の自分。ホームルームが始まるまで「その人」を待ったけれど、現れなかった。

 

昼休憩。食堂での昼食もほどほどに、再びB組へ。友人との会話で暇をつぶしながら、「彼女」が来るのを待った。

キーンコーンカーンコーン

午後の授業の開始を告げるチャイムが鳴った。

 

なかなか姿を明かさない相手のことで、頭はいっぱい。授業の内容は右から左へ抜けていく。5限と6限の100分間超が、数時間にも感じられた。「その人」は、いったい誰なのか。

「あのコか? それともこのコか?」

 

帰りのホームルームが終わるやいなや、一直線にB組へ行った。周りでは、一人、また一人と下校していく。「帰んないのー?」という同級生の呼びかけには、適当な理由を言ってごまかした。

夕日がまぶしく差し込む教室で、ひとり待ち続けた……。

 

次の日も、その次の日も「その人」とは会えなかった。

あのメールを送ってきたのは誰だったんだろう。面と向かっての告白に躊躇してしまった恥ずかしがり屋さん?ふざけて誰かになりすました友人?

 

「その人」は、まだ俺の前に正体を現していない。

 

The Man in Me

The Man in Me