表現の自由と想像の余地
絵画、文学、映画……。こういったアートにおける規制、あるいは制約が絶対悪かと言うと、必ずしもそうと言い切れないところもあって。
「これより先は見せない、それ以上は表現しない」
こういうのが完全になくなると、人間の想像力っていうのは枯れてしまうと思うのですよ。
つまり、全てを見せてしまうと、実存的現実にある意味で縛られて、想像の余地が狭まってしまう。相対的であるべき各人のイマジネーションが、一つに収斂されてしまうというか、画一化されてしまうというか……。
だからこそ、映像という実存主義の権化のようなツールが登場してもなお、未だに人は絵や文章に惹かれ、その欠落した要素の脳内補完作業を楽しむわけ。
特にエログロは、どこまで見せるか、言い換えれば、どこ(どういう表現)を切り捨てるか、っていうことが重要になってくると思う。
たとえばエロだと、こんな感じで、男役をあえてタコに代替してみた春画だとか。(→ 今のお色気漫画にも脈々と受け継がれてる手法ですよね。触手系)
グロであれば、スプラッター的なとこは、あえて映さず成功した『悪魔のいけにえ』だとか。
敷かれたライン際ギリギリのところでせめぎ合うことで、良い物が生まれることも多いような気がする。
でもまあ、そんなこと言って、観る人、読む人の想像力を働かせるために自分のやりたい表現を自粛する/規制されるなんて、本末転倒。
だから、限りなく広い表現の自由の幅と、底なしに深い人間の想像力の可動域をいかに最大化して、共存させていけるかというのが、ますます肝心になってくると思う。
「あえて」。これは芸術における危険であると同時に可能性でもあり、現代社会に対する挑戦でもある。