methinks

ツイッターの140字では書き切れないけど、フェイスブックに直接投稿するような性質のものでもないやつ。

表現の自由と想像の余地

 

絵画、文学、映画……。こういったアートにおける規制、あるいは制約が絶対悪かと言うと、必ずしもそうと言い切れないところもあって。

「これより先は見せない、それ以上は表現しない」

こういうのが完全になくなると、人間の想像力っていうのは枯れてしまうと思うのですよ。

 

つまり、全てを見せてしまうと、実存的現実にある意味で縛られて、想像の余地が狭まってしまう。相対的であるべき各人のイマジネーションが、一つに収斂されてしまうというか、画一化されてしまうというか……。

だからこそ、映像という実存主義の権化のようなツールが登場してもなお、未だに人は絵や文章に惹かれ、その欠落した要素の脳内補完作業を楽しむわけ。

 

特にエログロは、どこまで見せるか、言い換えれば、どこ(どういう表現)を切り捨てるか、っていうことが重要になってくると思う。

たとえばエロだと、こんな感じで、男役をあえてタコに代替してみた春画だとか。(→ 今のお色気漫画にも脈々と受け継がれてる手法ですよね。触手系)

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グロであれば、スプラッター的なとこは、あえて映さず成功した『悪魔のいけにえ』だとか。
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敷かれたライン際ギリギリのところでせめぎ合うことで、良い物が生まれることも多いような気がする。

でもまあ、そんなこと言って、観る人、読む人の想像力を働かせるために自分のやりたい表現を自粛する/規制されるなんて、本末転倒。

だから、限りなく広い表現の自由の幅と、底なしに深い人間の想像力の可動域をいかに最大化して、共存させていけるかというのが、ますます肝心になってくると思う。

「あえて」。これは芸術における危険であると同時に可能性でもあり、現代社会に対する挑戦でもある。